昭和45年4月26日 朝の御理解 (末永信太郎) №45-061
御理解第一節
今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ
天地が一新される、天地に清風が漲る、天地に春が来る、と。金光大神がこの世に出現された本当の意義というものが、今年こそ、ハッキリと世に問われることはなかろうと思われるほどしの、大いなる年である、この70年という年柄は。私は、そう思う。そういう意味においてね、私どもが、いわゆるお道の信奉者、金光教の信者が本当に、三代金光教ご在世中に仰っておられた、全教一新してという、全教一新という言葉。それが、どうでもなされる手立てが、今年から本当に付けられなければいけない。
全教一新、全教一新を叫びながら、それが出来なかったけれど、実際出けていない。けれども、本気でそこのところに、教団人全部が、いよいよ取り組まなければならない。ね。天地が一新する、その一部として。ね。全教が一新した。いわゆる、教祖に返れというようなことが言われる。全教一新する。
その全教の中にです、いよいよ、何とはなしに黒い雲がたれ込めておるような、そういう状態が、ね、天地清風である。いわゆる、清い風によって、吹き払われるおかげを頂かなければならない。そこに初めて、教団の上にも春が来た、百年ぶりに春が来たということが言える。
ね、天地に春が来る、天地が一新する、という前に、金光教の教団自体が、そこに目覚めなければならん。そして、この大いなる世に、教祖様が百年前にこの道を立てられた意義というものが、他の宗派宗教では徹底し得ない複雑なものを持っておるのに。ね。金光教祖が、ね、教えられた、まあ、いわば単純な、実に素朴な教えの一言が、ね、世界に清風を起こることになるとは、もう、それこそ金光大神ですらご承知でなかったかも知れない。ね。
いわゆる、和賀心である。ね。信心のある者、ない者。または、様々な宗教を持っておる者。ね。その人達も全部がです、教祖の教えて下さる、いわゆる、和賀心を根底とする生き方。ね。その上に立つあらゆる何々宗であり、何々派であり、または、無神論者もそん中に加えてです。でも、無心論者でも分かるであろう、いわば、和賀心ということの内容をです、和賀心学を持って説明するなら分かるであろう、と思われるほどしの素晴らしい御教えがです、ね、徹底されなければならん。
そこでまず、教団人自体がです、その教えを頂いて捧持しておる私どもがです、ね、皆が言うてはおるのです。ね。金光大神取次の道と言われるが、どこをどう、取次を願って、どう頂いておかげを頂くかと言うとです、ね、けっきょく私どもの心に和賀心。いわゆる、究極のところは、その和賀心を頂くことに焦点を置かなければならんと言うておるのですから。実際に言うておるのですから、ね、だから、それを本当に実行に移さなければならない。ね。
昨日の御理解に続き、昨日もこの第一節でしたね。いわゆる、白紙になって写さなければならない、そういう、例えば今年という年は、年柄に当たっておる、70年という年は。ね。そこで、なら、教団人自体がです、本当に全教、本当の意味においての一新をしなければならない。いわゆる、大改革が加えられなければならない。ね。はたして、そういうようなことに、教団人がです、いよいよ、そこんところに着眼すると言うか、そこんところに気がつくと言うか。
そして、その働きを起こそうとする者が、なら、教団の中に何人あるだろうか、と。そこでです、私どもはその、世界とか教団とかということの前に、私ども合楽に御神縁を頂いておる信奉者の、私ども家族の上にです、ね、家族の在り方の中に一新するものが、家庭の中に、いわゆる信心の清風が、いよいよ私の家庭にも春が来たと思われるほどしのです、おかげにならせて頂くことを、今年はいよいよ願わなければならない。ね。そこを願う前に、だから今度は、私一人の上に、私自身が一新しなければならない。ね。
私の心の中に、清風が吹き抜けるほどしのおかげを頂かなければならない。何も災いされることのないほどしの私ども。ね。私どもの心自体に、清風が漲らなければならない。私どもの心に、生き生きとした春が来る。おかげを受けなければならん。ね。そのことがです、そのことが、ね、世界和賀心時代へ繋がるんだと、自覚しなければならない。ね。
私自身が一新することがです、ね、私が改まる、私が清まるということがです、世界の清まりに繋がらなければならない。ね。そこんところを、私、現教主様は仰っておられると思うです。自分の家の前を履かせて頂く。ただ自分の家の前がきれいになりさえすれば良い、といったような、その、いわばお掃除の仕方であった。それがね、今、私が自分の前を履いておるということはです、世界が清まって行きよることに繋がるんだと思わなければならんという訳なのです。
ね、その思いが変わる、そこがね、私は天地が開ける音を聞いて、目を覚ました人の姿だと、私は思うです。私が清まるということは、もう、天地が清まる、もう、そこに一点が出けたんだ。私の家の前がきれいに清掃されたことがです、世界の一角、世界の一世がね、清掃されたことになるんだ、と。
今までは、私が清まりさえすりゃええ、私が、まあ、家の前がきれいになりさえすりゃええ、という、いわば、お掃除の仕方がです。ね。私は、そこんところがですね、天地の開ける音を聞いて、目を覚ますということは、そこんところを翻然としてですね、私はおかげを頂いて行くことだと思う。ね。
そのことがです、一家中の者がなって行かなければならない、と言うのである。ね。そこんところに初めて、大いなる世に、私どもが生まれ合わせたことの幸せを感ずることが出けるおかげがあると、私は思う。皆さん、どうでしょうか。今、私が申しましたようなことが、私どもが一生懸命、信心をさせて頂いておる。それは、去年だって一昨年だって、同じことだ、と。
形の上においては、同じことのようであるけれどもね、もう、全然その、願いが違う、根本から違う。ね。それが、金光教の信心をさせて頂く者の信心者の、言うなら、生き姿。そういう家庭が、お道の信奉者の家庭で在らなければならない。それが、教団の生き生きとした姿に変わって来なければならん。ね。
まず、教祖様が教え出されておられます御教えがです、ね、本当の意味で、究極のところは、そこだと言っておったのをです、もう、本当にその究極なところにです、私どもが精進することの、また、そのことを頂くことの偉大なことをです、一つ、悟らせてもらわなければならん。
昨日は、婦人部会に引き続いて、例の信心研修会が、もう熱心にありましたですね。ね。その中に、ね、和賀心ということについてのですね、まあ、一人一人、その体験を発表されました。皆さんがいかに和賀心に取り組んでおられるかということをですね、お話を聞きながら感じさせて頂きました。だいたい、和賀心和賀心と言うが、その、だいたい、和の心とはどういう心か。まず、そこから一つ検討して行かなければならない。和というのは、いわゆる、丸いということにする。和ということは、円満ということ。ね。和ということは、字の示すとおり、和らぐということです。示す。ね。
和らいだ上に円満である。どちらへ転んでも、障るところがない。ある人はそれをですね、いよいよ、この和の心に取り組ませて頂くことによってね、私なりに包容力が出けて来たと、こう言われる。ね。それはね、包容力ということは、まあ、(清濁愛飲む?)といったような言葉がありますように、そういう、その、意味にも使われるから、ちょっと間違いやすいけれども、その方が発表するところのものはです、ね、私の心が和になり、私の心が和らいで来たからです、問題が無くなって来たというのである。
自分の心に、ああ、そうでもあろうというようにです、相手の心になってやれることが出来るというのである。これは、人間関係の場合であっても。だから、一つも障らない。そういう意味においての、包容力なのだ。ね。また、ある人は言っておりました。私がどこへ行きますでも、この着物ばっかしは着て行きませんから、ある人が、あそこの奥さんな、もう、いつもこっぱげたごたる着物ばっかり着てから、と言うて、まあ、笑われた、と。
それを私は聞かせて頂いた時に、帰り道々、もう、声が出るほどおかしかったと言うておる。ね。なるほど、私は只今修行中の看板をあげとるように、一家を挙げて、本当に修行の真っ只中にあります。着物一枚、なるほど買えません。嫁入る時に持ってきたこの着物、言うならば、なるほど、こっぱげてもおります。
どこへ行くでも、それは、(お未曾有を苦せず?)着て行くことが出ける。それを、ある人が笑うた。そのことを聞いて、その、帰り道をです、ね、思いよったら、可笑しゅうして可笑しゅうして、声が出るほど笑うて帰ったと言うのである。もう、まさしく、和の心である。
いや、和の心にまた、賀びの心がそん中に感じられる。私は、和の心、和賀心と言やあ、ね、ただね、説明することは、皆さんがいつも頂いておりますから、誰でも出けますよね。和とは、ね、和らぐ心であり、賀とは、祝賀の賀じゃと、あのように説明して頂くのでございますから。ね。けれども、本気でそのことに取り組ませて頂くということがです、一言一言、実感的にです、私の和の心、私の賀び、賀の心というものをそのようにです、一人ひとりが、もう、はっきり表現出来るということの素晴らしいこと。ね。
そういう信心をです、私は推し進めて行くことなのだ、もう、そこ以外にないのだ、理屈抜きにして。横に高橋さんと文男さんがおりましたから、申しました。なるほど、菊栄会の方達の信心は素晴らしい。また、菊栄会の方達の場合、もう本当に、もう、一つも問題がなかりそうにある。いや、あっても、問題がない。それは、好きな者同士の集まりだからなのだ、と。ね。
好きな者同士のところには、問題はないです。あっても、消えて無くなるです。だから、これは小さい意味においての、和の見本なのだ、と。ですから高橋さん、その菊栄会の方達の心の状態がです、ね、自分の家庭においても、お店の上においても、(世界?社会?)の上においてもです。ね。私は、その同じような心が持って回られることが、私は和の心だと思うと言うて、お話したんです。ね。
いわゆる、皆が自分と仲の良い人達として見れれる、感じられるほどしの心が、和の心なのだ。ああ、あれは虫が好かん。もう、そこには和がない。もちろん、賀が、賀びが伴うはずは、もちろんない。ね。そういうね、私は、私の心をですね、広げて行くということ。
昨日、伊万里の方達が4~5人見えておりました。昨日、竹内先生の奥さんとお母さんが見えておりましたが。ね。おばあちゃんが、今度、竹内先生のおかげを受けられたことを、まあ、いろいろお話になりました。中にね、通教が初めて私の手を握って、お母さん、長い間、ね、ご苦労様でございました。長い間、ご心配をかけました、と言うて、私の手を握って喜びました。いや、私も喜びました、親子が喜び合いましたと言うて、お話をしておられます。ね。
私は和の心とはね、本当に、お互いが手を握り合うというだけではなくてね、感謝の心を込めての握り合いでなからなければならない、ということなのです。ね。それが、和の心なのだ。ね。なるほど、私どもは生きて行く上にです、様々な問題もありますし、人間関係でも、確かに、そう好きなモン同士といったような訳には参りませんことも沢山あります。
もう本当に、普通から言うなら、もう、あれには、それこそ、もう、唾でんかけようごとないごたっとがおります。もう、自分の敵のごたるとがおります。ね。けど、そういう時にですね、私どもは和の心を、私は頂いておかなければならない。ね。なるほど、手を握り合うことは出けるかも知れません。けれどもね、あの人のおかげで、私が向上する。あの人のおかげで、私が分からないところが、分からせてもらうということになって来ると、そこには感謝が込められるじゃないですか。
実際には手は取り合わなくてもです、そういうのが、やはり嫌で、嫌いでというのが横にあるからこそ、私がそこに弾みがつくのですから。ね。そういうことになって参ります時にですね、やはり私は、それも和だと思います。昨日は、そういうような信心体験発表を皆さんがなさいました後に、先日から、昨日の御理解の中にも申しました、天地新春、天地清風、天地一新と、(永久にクッと?)書いて頂きまして。
で、そのことを一つひとつ、この天地新春という言葉の中から、どのようなものを、まあ、一口で言うて感ずるか。天地清風とは、天地一新とはと、それぞれの信心を練り上げましてね、そのことが、今あの、共励殿の(とばん)いっぱいに書いてありますから、どうぞあれは、皆さん、書き写して、お帰り頂きたいと思います。ね。最後に、「天心地真」とあります。天心地真とは、天の心、地の真と書いてあります。ね。
天の心。ね。天の心というのは、ね、氏子におかげをやりたしの一心ということ。おかげに、ね、天の心はね、氏子に幸せになってもらいたいという一心。天地には、それ以外はない、天には。天の心にはね、氏子幸せになってくれという、その一心しかない。それが、天の心。それで、地真である。そこで、おかげを受けてくれよという、そのおかげの一心をです、私どもが、ね、地の真を持ってです、いわゆる、一心の真を持って、それを受けて行こうと言うのである。
ね、一心の真。真という字は、この真という字ね。この一心の真というのも、これは、教主様が、三代金光様がお亡くなりになります十年ぐらい前のお正月に、(おいだし?)になったお言葉です、一心の真、と。ね。私どもがね、天には、氏子幸せになってくれ、という一心しかない。
そこで、地、私ども。私どもはです、地の心を心としてね、それを一言で言うと、一心の真ということになる。ね。一心の真を貫かせてもらう。ね。そこにです、いわゆる私どもの大地。大地の持つ性格とでも申しましょうかね。いわゆる、大地の心とでも申しますか。その大地の心をです、私どもの心として修行して行くということを、私どもが、ここ長年間修行してまいりました、成り行きを大切にさせてもらう、成り行きを尊ばせて頂くということに他ならないのです。
それを、真一心を持って、それを貫いて行こうと言うのです。ね。そういう、例えば私どもが長年かかって信心してきた信心がです、今年こそはね、世に問われる時代だということなんです。ね。また、問われなければならないということです。そこに、人間の幸福があるのだ、と。それを、私一人が幸福になり、私一家が幸福になり、しかも、私一人が幸福に、自分がそれを体得するということがです、世界の人類が助かって行くことに繋がるという思い込みが出けるという事なん、今年という年は。
そういうおかげを、受けなければならんと言うのである。ね。私が助かるということは、ね、世界の人類が助かって行くことに繋がっておるというところにです、私は、今年は自覚しなけれりゃいけないと思う。ね。いわゆる、マイホーム的なということが言われますが、その、ただです、ね、私が助かりさえすりゃええ、自分の一家が助かりさえすりゃ良いという、そして、そこにはもう、他のこととは、もう、シャッターを下ろしたような感じのですね、ものであってはならないということ。
私の助かりがそのままね、隣近所にも繋がって行くものだと確信して、私がまず助からなきゃならない。ね。同じようであって、決して同じではない、と。ね。教主様はそこんところを、自分の前をきれいに履くということは、世界の一部が清まっておることだ、と言うておられます。ね。
だから、自分の思いがその変わる、そのことがです、私は目を覚ますことだと思うんです。ね。それが、ね、教団全体に、そういう信心が漲ることをです、天地清風、と。いわゆる、教団全体が清風に包まれる。ね。それがね、世界が清まっていくところの、ことに繋がっておるというようなです、おかげを頂かして頂かなければならん。ね。
いよいよ、私の和賀心。ね。昨日、研修会で皆さんが発表されました。それぞれ、一つの個性を持った和賀心。そういう体験がです、日々です、もう、自分が体験をしなかったらね、やはり、発表も出けませんですね。はあ、これが和の心であろう、これが賀の心であろう、と思われるような心がですね、どこででも、いつでも、それが使えれるおかげを頂かしてもらう。ね。
もう、そこをですね、本当に、まあ、素朴とか単純とかという言葉を、私は最近使いますがね。私どもは、本当に素朴に、単純にそこんところをね、極めて行くことに焦点を置いたら良いのです。ぎりぎりのところは、究極のところはここだと言われておるのでございますから。もう、究極のところをです、私どもは一つ、本気で頂いて。何も分かっちゃござらん。ござらんけれども、一番肝心要のところをガンと掴んでござるあの人は、と言われる私になりゃいいと、私は思うんです。そうでしょうが。
それが、しかも世界の人類全ての幸福のことに繋がって行くというのですから、大変な事なんですからね。その大変なことを、今年こそはね、成し遂げて行く、一つの決心をしなければならないと仰る。それは、私どもが一生かかって、どれほどしの事が出けるか分からんけれど、それがです、ね、子にも孫にも語り継がれて、おかげを頂いて行く。いわゆる、世界人類の本当の助かりを目指すということはね、まず、そういうところからです、私は(発願?)されなければならないと思うですね。どうぞ。